科学者の苦労

 科学者は歴史の中で、新しい発見をしたとしても、それが常識からかけ離れていればいるほど迫害されたということを聞いたことがあります。それは、私達は自分の定規で測ることができないものは、理解することが難しいからであります。それは昔も今も変わりません。

 どの分野の科学者でも、新しい法則を見いだすのは容易ではありません。一年、五年、10年、30年と長い年月がかかる場合もあります。ノーベル賞を受賞するような研究には、その人の人生の全てがかけられている場合もあるでしょう。もしかしたら、同じくらいの時間をかけてみないとその本当の価値は分からないかも知れません。

 例えば、「石の上にも三年」ということわざがありますが、それを体験したことがある人は素直に受け入れられるでしょう。しかし、そういう経験の無い人にとっては難しいでしょう。ただ、ある程度世の中で認知されていることは、疑問を持たずに認められるようになります。

 初めて「物質は、波になったり、粒子になったりする。」ということを聞いた時にはどうでしょうか。頭の中が混乱してしまうでしょう。しかし、一般的に量子力学が認められる社会であればそういうものであると理解するように努力するでしょう。

 私は、小学校の頃、水が沸騰する時に水の中からぼこぼこと出てくるのが、水蒸気であると中々受け入れることが出来なかったのを思い出します。

 科学よりももっと受け入れにくいのが、易学だと思います。なぜかというと、科学とその土俵が全く違うからであります。さらに、易学には、時間と共に絶えず変化するという法則があります。それ故、私達は日々成長することが出来るわけでありますが。そして、その法則は文字だけでは表現が出来ない面があります。職人がもつ感性のような側面があるわけであります。

 ですから、その正しさを証明するためには、自分で実際に体験してその正しさを実感する必要があるわけであります。それは、宗教でも同じ事が言えるでしょう。「神様が存在するかしないか」は自分で求めてその存在を実感出来て初めて信じることが出来るわけであります。あの世の存在は、臨死体験をして実際に言ってきた人でなければ理解出来ないでしょう。

 今は、科学の正しさが、私達がその理論が分からなくても、その分野の科学者が証明していれば、一般の人も認めるわけでありますが、昔はそうではなかったということであります。

 易学に於いては、その基本理論は陰陽五行論と言われますが、戦前のように教育機関で学ぶ機会があれば、常識として当たり前であったはずであります。

 残念なのは、非科学的という判断は、科学的でないことが証明されて初めて成されるべきでありますが、現在はただ否定するためにそのように言われることであります。

 大切なのは、学んでいる人がそれを実感として認識出来るまで理論的に掘り下げると共に、実践して体感することであります。

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